yamada6666
25-12-13 10:18

#仙台育英#
お母さん…俺、仙台育英にするわ」“ノーコンだった少年”が甲子園で大活躍&ドラフト候補に成長するまで「元バレー代表“伝説リベロ”の母」が明かす成長物語

「世界一のリベロ」と称され、バレーボール女子日本代表でも活躍した津雲博子(55歳)。今秋、仙台育英高校のエースとして甲子園で活躍した息子・吉川陽大がドラフト候補に名を連ねたことで再び彼女に注目が集まった。波瀾万丈なバレーボール人生と、子育て秘話を明かした。

 2025年8月17日、甲子園の気温は何度だったのか。

 仙台育英と沖縄尚学の3回戦。9回では決着がつかず、タイブレークの11回には試合開始から2時間以上が過ぎていた。緊張か、はたまた熱中症か――仙台育英のマウンドに立つ吉川陽大の母・博子さんは気分が悪くなって、一度、スタンドから日陰へと移動した。

 1、2回戦でもアルプススタンドにいながら、まともに試合を見ることができなかった。あの陽大が、子どもの頃から夢見た甲子園という舞台に立つ。晴れ姿だとわかっていてもよぎるのは野球を始めたばかりの小学生の頃の記憶。

「とにかくストライクが入らなかったんです。陽大のボールを捕るために、キャッチャーの子があっちこっち手を伸ばさないといけない。そのイメージが私の中では抜けなくて、ずっと怖かった。だから1つアウトを取るたびに周りのお母さんたちが『ストライク取ったよ、アウト取ったよ』と教えてくれて、ありがとう、ありがとうって祈ることしかできませんでした」

号泣する息子「“泣くな”と思うけれど…」
 11回裏、2点を追う仙台育英の攻撃。あっという間に2死三塁と追い込まれた場面でバッターボックスに立ったのが、この日一人で投げ抜いてきた息子だった。大歓声を耳にし、モニターに映る陽大の姿を確認した博子さんは、再びスタンドへ急いで駆け戻った。

 目に飛び込んできたのは一塁にヘッドスライディングしたまま、立ち上がれず、仲間たちが支えながら涙する息子の姿。試合を終えてから、バッターボックスに立つ時から泣いていたことを知った。

「SNSで動画がたくさん出ているのを見て、泣いてたの? って。泣いてるどころか号泣でしたよね(笑)。アスリートの目線で見れば『泣くな』と思うけれど、母としては『仕方ないよね』という気持ち。半分半分でした」

 博子さんは2003年に現役生活を引退。それから2年後に長男が、3年後の2007年に陽大が誕生した。1歳違いの兄弟が野球を始めたのは小学生の頃。生後8カ月からつかまり立ちするほど運動能力に長けた弟は、間もなくピッチャーとなったが、母の記憶に違わず当時はコントロールに難があった。そんな陽大を覚醒させ、技巧派投手への道を開いたのが中学時代に所属した横浜都筑シニアの伊藤洋一郎監督だ。

 入団前の陽大に「キャッチボールをしよう」と声をかけ、数十球を投げ合った伊藤監督はすぐさま博子さんのもとへやってきた。

「お母ちゃん、この子はいいよ。プロになるかもしれない」

 ストライクが入らないのに? 驚愕する博子さんに、伊藤監督は断言した。

「ストライクが入る、入らないは練習すれば何とでもなる。でもこのボールの回転は、教えてできるものじゃないんです」

 当時のやり取りを回顧しながら、博子さんが笑う。

「私も旦那も野球のことはわからないから、ピッチャーはストライクを取ることがすべてじゃないの? って思うわけですよ。だって、バレーボールでサーブが入らない子を見て『この子はいいよ、プロになる』と言われても意味がわからないじゃないですか。伊藤さんも同じ左投げのピッチャーだったので、いろいろなことを教えてくれたみたいです」

★須江監督が“お母さん”を見たかった理由

 中学2年になった陽大が“左投げの二番手”にまで成長を遂げた頃、予期せぬ訪問者が現れる。その翌年、夏の甲子園を制する仙台育英の須江航監督だった。

 伊藤監督から「陽大の視察にくる」と聞いていたものの、半信半疑だった博子さんは買い物に出かけた。すると、携帯電話が鳴った。夫・正博さんからだった。

「急いで帰ってきて。お母ちゃんを見たいらしいんだよ」

 須江監督の要望だった。慌てて戻ると、須江監督は家族を交えて学校紹介や野球部の特徴をパソコンを開きながら理路整然と示し、「一度グラウンドに来て下さい」と言葉を残して帰っていった。

 その後、実際に施設を見学して帰ってきた息子は声を弾ませて言った。

「お母さん、俺、仙台育英にするわ」

 神奈川県からの宮城県への越境留学。強豪校で過ごす3年間。博子さんはあえて厳しい言葉をかけた。

「3年間、アルプススタンドにいて応援するだけかもしれないよ?」

 陽大は迷わず答える。

「勝負してくる」

 息子の決意を知った母は背中を押すだけだった。

 出発の朝、博子さんと一緒に仙台に向かう陽大よりも先に兄は家を出た。「がんばれよ」という兄に、「お前もな」とそっけなく応える弟。男兄弟なんてそんなものか。だが、新幹線に乗った途端、陽大は人目をはばからず泣き続けた。そして学校から帰宅した兄も「陽大がいなくなった」と突っ伏して泣いた。

「夫が俺も悲しいと言うと、『違う。俺のほうがずっと一緒にいたんだ』と。お互いを認め合っていたのでしょうし、中学生までは兄弟でバッテリーを組むことも多かった。親としては本当に幸せな気持ちになりました」

 博子さんの想像通り、メンバー争いは厳しい。2年春に初めてメンバー入りを果たしたが、先発投手、完投まで任されるようになったのは背番号1をつけた秋になってからだった。

★高校近くに部屋を借りてサポート

 離れて暮らす日々。親としてはどんな毎日を過ごしているのか気になるのは当たり前。欲しいものはないか、持っていけるものはないか、という日常のやり取りを重ねるだけでなく、博子さんは「何度も行くならホテルを取るのと変わらないから」と仙台にアパートを1室借りた。練習試合や公式戦にも足を運び、毎回「球速上がった?」とたずねていた。  陽大はその都度「145(キロ)出るようになった」と答えていたが、ある日、真顔で言われた。 「お母さん、野球は球速じゃない。ただ速いだけじゃ、きれいに当てられたらその分飛んで行くでしょ。だから大事なのは回転とコントロール、俺はスピンやコースで勝負するから」  感心していると、続く言葉に真髄を突かれた。 「お母さんがさ、バレーを知らない人にあれこれ言われたらどう思う?」 「嫌だね」 「俺も同じ。嫌だよね」  何げないやり取りだったが、同じアスリートとして息子が成長していることを実感し、以降、野球の質問は控えるようになった。  甲子園でも活躍した息子は、須江監督の勧めもあり、今秋にプロ志望届を提出した。自分で決めた道を貫く強さは親元を離れた3年間でも見て来た。それでも「あの陽大がプロなんて信じられない」というのも母の本音だろう。 「ドラフトのニュースやYouTubeのドラフト指名予想を見て、陽大の名前があると嬉しいし、なければ『お父ちゃん、アキの名前なかった』っていちいち落ち込む。家族にとってもビッグイベントですよ(笑)。指名されるか、指名されないか。どうなるかわからないですけど、たとえどちらだとしても家族としては応援するのみです」  残念ながら今年のドラフトで「吉川陽大」の名が呼ばれることはなかった。だが、これで夢が終わったわけではない。プロ野球選手になる挑戦は次のステージへと続く。 「頑張る息子を応援するために、私たちも頑張る。今度はどこに部屋を借りようかな、とか。そんなことばっかり考えているんです(笑)」  かつて“世界のリベロ”と呼ばれ、歴史を刻んだ津雲博子。選手として夢破れても、妻、母として新たな道を生き、息子をドラフト候補に育て上げた。息子も次の目標に向けてスタートを切る。何度も折れても、逞しく。吉川家の物語は続いていく。

发布于 日本